ヨガの哲学 Living Yoga


4月サチコ先生の「ahimsa」の解説からはじまった、SHIZENヨガのインストラクターによる、yama、niyamaの解説も最後となりました。最後を締めてくださるのは、ナオ先生です。「ヨガスートラ」のクラスも担当されているナオ先生の力作です。是非、お読みください。

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Īśvara-Praṇidhāna
「全ての源であり、全てを司っている大いなる力を完全に信頼してゆだねる」

Īśvara=いのちの根源、宇宙を動かしているもの、全てを統括しているもの。
言葉では説明出来ない、マインドでは決して捉えきれないもの。
それを人は、神、と呼ぶ。
Praṇidhāna=完全に常につながっていること、ひとつになること、自分を明け渡すこと。

Īśvara-Praṇidhānaは、神への献身としてよく訳される。
けれど、神という言葉に馴染みがなかったり、違和感がある人には、この訳は、非常にとっつきにくい。
実際は、Īśvara=神は、そこいら中に存在しているものを指し示している。
もっというならば、Īśvaraでないものなんて、この世に存在してない。
例えば、心臓の鼓動が今起きていること、
例えば、理由なく嬉しい気持ちがやってくること、
例えば、急に自分の中の深い闇に遭遇すること。
そのすべてにĪśvaraが生きている。
本当は、深く考察する必要も、無理に信じようと努力する必要もないぐらい明白に存在しているもの。それが、Īśvara。

Praṇidhānaとは、ある姿勢だと思う。
自分の頭の中の小さな世界から飛び出し、
宇宙規模の大きな働きへ意識的につながろうとする姿勢。
なにを心に置いて生きるか、自分のチョイス。

今の私にとって、Īśvara-Praṇidhānaとは、
あらゆる状況において、自分の直感を信頼するという選択肢を取ること。
自分のビビったマインドが何をごちゃごちゃ言おうと、自分より知識のある人がもっともらしいアドバイスをくれようと、それよりなにより自分の中にある「好き!」という感覚、「楽しい!」という感覚、「これがしたい!」という感覚を信頼しその流れにゆだねる。

そして、最後までやりきる。ようするに、言動の責任を取る。
結果はどうなるかわからない。結果は、神の領域だ。手出しはできない。
ものすごく楽しい思いをするかもしれないし、ものすごく大変なことに巻き込まれるかもしれない。だいたいその両方が起きてくる。
それでも最後まで、自分という存在が、大いなる働き=神とつながっていることを信頼して歩み続ける。
この世の光と影の両方を味わい尽くす。
そして、それが、どのような体験であっても、楽しむ。
ぐっちゃぐっちゃの泥にまみれるのや、大雨に打たれるのも、「生きてる!」という実感を与えてくれる。
この自分の人生って言うドラマほど、面白いドラマは、どこのテレビでもやっていない。
他のどこにもない「自分」ほど面白いものは存在しない。
インド古来の叡智ヴェーダはこう詠っている。
「宇宙は完全である。完全から完全を取り去っても、完全のみが残る。」
だから、私のĪśvara-Praṇidhānaの実践は、完全である宇宙から生まれた自分のハートの声に信頼をゆだねて、未知の世界に足を踏み出すこと。

難しいのは、どれが、自分のハートから来る直感で、どれが、自分のマインドから来る嘘かを見分けること。これは、一つ一つ人生の階段を登りながら実際に体験を積んで、判断できるようになる以外、近道はないと思う。
疑ったり、不安に思ったり、怖がったりするのは、マインドが大得意なこと。
信頼してゆだねることは、マインドにとって、とってもとっても難しい。
何しろ、マインドの性質は、何かをつかむ事、過去を今に塗り替える事、未来のストーリーを作ることだから。マインドが変に働くと、心がざわざわしたり、呼吸が浅くなったり、体の調子がおかしくなったり、気持ちが重く苦しくなる。

ハートから信頼してゆだねることは、手放すこと、今に在ること、余計な手出しをしないこと。
これは、私達の本来の姿。
思い出してみると、この地球に生まれた時、私達は、全ての存在を完全に信頼してゆだねていた。
手も足も自分では動かせず、言葉も話せず、自分の生命を維持する方法もしらなかった。
全て周りの存在に任せきっていた。
そして、幸せだった。
なぜなら、自分という存在の奇跡そのものを生きていたから。
ひと呼吸、ひと呼吸が奇跡の賜物、神からの恩寵。
それを言葉ではなく、全身全霊で感じて生きていたから。
だから、私たちは、全員、ハートからの直感で信頼して生きることを知っている。
直感と共に生きている時、私たちは、ハートが開いてワクワクする、呼吸も体も気持ちがいい、例えどこか悪いところがあってもそれほど気にならない、エネルギーが無尽蔵に湧いてくる。

命の始まりには、信頼しか存在していなかった。
そして、命の継続には、信頼が必須。
みんなが、信頼してないで、どうやってこの社会が回るだろう?
どうやって信頼なしで、高速で80キロ以上ものスピードを出して、ほとんどの人々が運転できるんだろう。信頼は=Īśvara-Praṇidhānaは、生活のそこかしこに生きている。

私たちは、命を守るために、自分を守るために、マインドをたくさんたくさん働かせて傷つかないように生きなさいって教えられてきたけど、本当は、マインドを使って自分を守ろうとすればするほど、苦しさが増していってないだろうか。
何かをつかめばつかむほど、自分本来の力は弱まっていってないだろうか。
先を描けば描くほど、心が重くなっていないだろうか。

だから、パタンジャリは、本当に自分を大切にしたいなら、
手を放しなさい、ゆだねなさい、信頼しなさい、と伝えたのだと思う。

「言うが易し行うが難し」
Īśvara-Praṇidhānaは、実践するのが、めちゃくちゃ難しい。
だけど、Niyama(自分との関係を豊かにするための心構え)の最後にĪśvara-Praṇidhānaが書かれているということは、先に書かれたNiyamaを日々の生活の中にすこしづつ取り込みながら道を進んでいけば、Īśvara-Praṇidhānaがなんなのか自ずと見えてくるってこと。

だから、ヨーガスートラの第二章の始めには、Tapas(浄化の行/苦行)とSvādhyāya自分を理解すること/聖典の学習)が、Īśvara-Praṇidhānaの前に示されている。

だから、まず、信頼してゆだねることができないときは、その自分を信頼しましょう!(笑)
つまり、疑いまくり、ネガティブになりまくり、ストーリーを描きまくり三昧です!
どうしようもない時は、どうしようもないんだ!その流れに流されよう。
でも、苦しいよね。

そしたらさ!ヨーガをしようよ。
アーサナでも、呼吸でも、瞑想でも、チャンティングでも、教典を読んでもいいよね。
それでさ、外に出る元気がちょっとでも出たらさ、スタジオにおいでよ。
一緒に心と体のお掃除をしよう=Tapas
一緒に自分を見つめてみよう。= Svādhyāya
一人ではできなくても、仲間がいればできることがたくさんある。
私たちは、あなたが、 Īśvara =神の子供であることを思い出す手助けを
それぞれの方法で用意して待ってる。
さあ一緒に、「自分」という名の奇跡の大冒険に出かけよう!!!

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SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。今回は、チカ先生が書いてくださいました。チカ先生は、女性のためのヨガ、マタニティヨガ、ヨガママ、ベビーヨガなど多くのクラスを担当されています。

スワディヤーヤ
「聖典を読むこと、学習すること」

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私自身ヨガに出会ったのが20代で、あっと言う間に20年くらい経ち、そのなかで、スワディヤーヤとして理解してきたのはここ最近になってからだと思います。

若い頃は無我夢中で、ヨガの神髄を理解しないままにアサナの練習をしていました。しかし、練習をし、一般生活の中で「苦しみ」がやって来た時に、ヤマニヤマに習ったことが多くあります。

人は皆、年齢とともにおかれる立場や環境や身体には変化があり、その中でも女性は、社会の中のごく小さな社会(家庭)の調和を担うことが多いでしょう。縁の下の力持ちといったところですね!(笑)日常生活において、あまりにも多くの情報を受け情報過多になり、多くの役割を担いすぎていると、知らず知らずにしてマインドを硬くし、何か自分を縛りつけたりして、ネガティブ思考のスイッチを入れてしまい、心と身体がバラバラにしてしまいがちです。

そのような時は、ひとりになり、一定の静けさの中で、誰とも比べず、自己の五感を感じ、先人の引き継がれてきた聖なる書物を読み、学び唱えてゆく練習をしてゆくと次第に内側に在る光がどんどん増して、自己が高まってゆくでしょう。かつてヨガ修行してきたの先人達が、引き継ぎ唱えてきた唱和には表す事は出来ないけれど沢山のパワーがあるのではないでしょうか。「聖なる言葉は心の栄養になり魂を輝かせる。」私のスワディヤーヤの解釈の一つです。

そして、一心一体。この肉体が痛いと感じるのは心ですし、心を感じるのはこの肉体です。

肉体の組織(ダートゥ)は、人に大切に育てられ、自然と調和して生き、祈り、大地の恵みから正しく調理された純粋(サットヴァ)な食物から戴くことで、肉体と共に魂を輝かせ創造してゆくのだと思います。

生きる者の全ての智慧は引き継がれています。学び、教育は人間の根本に影響してると言います。現代のヨガには幾つもの学ぶ方法が存在しています。それぞれの感覚にあった学び方、行ない方を探していきましょう。どの世代でも、学び経験を増してゆく行為は大変興味深く、終わりが無く、永遠に続くでしょう。

私はたまたまヨガを教える機会をいただきました。しかし、これに驕れる事無く、学び続けている生徒であり、そして、未来の次世代へ正しく引き継げるよう、「スワディヤーヤ」の練習と実践を続けていきたいなと思っています。

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。今回は、イネコ先生が書いてくださいました。 イネコ先生は、ドミニカ先生の代行をしてくださっています。

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「タパス」

タパスとは、熱心、厳しさ。

人生の最終目的に到達するためにいかなる状況下でも燃えるような努力をすること。

・身体にかかわることは: 禁欲(プラフマチャリア)、非暴力(アヒムサー)

・言葉に関することは: 言葉で他人を傷つけないようにし、神の偉大さをとき、結果にこだわらず真実を語り他人の悪口をいわない。

・ココロのタパスは: ココロが平静で安定しておりいつも自分をコントロールしている精神状態を育てること。

タパス

日本語でいうと修練。アサナの練習を身を焦がすように練習する。去年まではタパスをそう思っていましたが、去年から足を痛めてアサナの練習がまったくできなくなった時期が長くあり改めてタパスを考える機会を持ちました。すでにこのシリーズでサチコ先生がアヒムサーをそして牧野先生がプラフマチャリアを語って下さっていますがまさにこの両瓶が必要です。その両瓶があってこそタパスの教えが実戦できると思います。そしてカラダのタパスを突き詰めていけば言葉やココロのタパスもおのずと実践できるようになってくると思います。わたしにはまだ長い勉強の時間が必要です。

今日はここでいいたいのはみなさんの人生にもすでにたくさんのタパスの教えを学んでいるということです。子供時代を思い出して見ても特に学校生活では勉強や部活動、受験勉強。成人になっても社会、会社の中で金銭的なことやその中でのいろんな問題と向き合いながら生きていくことは子供も大人もまさにタパスの教えを特別なことではなく日々、学んでいますよね?時には眉をひそめることもあると思いますが目をそむけず、自分を嫌わず、前向きに挑戦していくこと。そしてアサナやプラナヤマや瞑想の練習はそのことを教えてくれる師でもあると思うのです

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。今回は、SHIZENヨガスタジオの元気印、レイコ先生が書いてくださいました。この壁画もレイコ先生が描かれたものなのですよ。レイコ先生は、水曜日と土曜日にベーシック1を教えていらっしゃいます。 

「サントーシャ」

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知足。満足すること。

今の社会、がんばり続けることが良いとされ、実績重視でお給料はそれに比例して変わるのが普通になってきています。

ゆとり教育で「勉強ばかりやらなくてもいいんだよ」「ナンバーワンよりオンリーワンだよ」と育てられた世代は「あれは何だったのだろう??」と思っているはず。1つの目標を達成したらすぐに、次はこれ、、その次は、、、と次から次に課題が現れ、どんなにがんばっても、いくら進んでもゴールは見えない。そうやって ずっと未来を切望し続けることが 成長に繋がる、、というのが社会的通念となってきているように思います。

これに慣れると 私生活でも1つ何かを手に入れると、それはすぐに当たり前の存在となり、条件反射のように次を欲するようになっていきます。

禅僧であり平和運動家、詩人でもあるティクナット・ハン氏の僧院では、一日に何度か鐘が鳴り、その度に何をしている人も一度動きを止めて、3回深呼吸をするそうです。

サントーシャを実行する為には まずは一度立ち止まって自分が今持っている物を確認することからはじめたら良いと思います。

今、自分にあるもの、家族、友人、仕事、健康、知恵、財産など、それが有ることを認識し直すと 自然に感謝の念がわいてきます。一回につき、そのどれか一つに焦点を絞って考えても良いと思います。

何か新しいものを手に入れたら、手に入れたそれ自体だけでなく、それを手に入れる経緯に関係した人を思い出してみます。何かが去っていったら、それが過去にあったことにより、今の自分があることを想います。感謝している自分を感じる時間を持ちます。

車窓からの美しい風景は、一瞬で過去の物になり忘れてしまいます。結婚したときあんなに仲が良かったパートナーも「この人がいなければ自由な時間がもっとあるのに」と思ったり、就職したとき「やったー」と飛び上がって喜んだ会社も「他の選択肢をもっと見ればよかった」と後悔したりする。

サントーシャは感謝の念。
自分にすでに有る物に感謝の気持ちを持つこと。
自分から去ってゆく物に追いすがらないこと。
感謝の気持ちを持つための時間を持つこと。

ヨガの練習でも 時には 新しいポーズに挑戦するかわりに、力を抜いて「しないこと」をしてみて下さい。自分の中にある空間を見つめてみて下さい。水に沈めたコップが水で満たされるように、そこに呼吸が入ってきて、自然に 強さや幸せが沸き上がってくるのが感じられると思います。

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。今回は、チカ先生と教えていらっしゃる新シリーズクラス「マタニティヨガインストラクターコース」が大好評なヒサコ先生が書いてくださいました。ヒサコ先生は、女性のためのヨガ、マタニティヨガも数多く担当されています。

「サウチャ」 

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今回から八支則のうちの2番目、ニヤマ(個人的に心がけるといいこと)に入ります。

ニヤマの一つめであるサウチャ(シャウチャ)は清浄にする、清浄に保つという意味です。これは環境、体、心、自分の外側と内側を清らかな状態に整え維持していくことです。

例えば、家を思い浮かべてみて下さい。キレイな家もずっとほっておけばそのうち汚れます。照明はホコリをかぶって暗くなり、窓もくもって光は遮られ、床はくすんで黒くなってきます。明るかった家もなんとなく暗なり、汚れていくほどに居心地は悪くなってきます。

そんな場所を本来のキレイな状態、心地良い状態にするには掃除をします。散らかったものを片付け、ゴミを捨て、ホコリを払い、掃いて磨いて掃除をすると、部屋はまた明るくなりスッキリとキレイになっていきます。これは汚れやゴミなどが払われる事、又はそのプロセスで感じられる事であり、何かを付けたしたり飾り付けたからではありません。この事はまた、環境ばかりでなく体や心にもあてはまります。

体が詰まる時や調子のよくない時、心に影がさす時、自分自身でいるのが何となく居心地悪く感じられる時、何かが私達の輝きや美しさ、心地良さを隠しています。それは物理的な汚れや老廃物、疲労などかも知れませんし、心に影をつくる考えかも知れませんが、まずはそれが何なのかをみてみましょう。そして適切な範囲で心身がクリアになるような事 ー アサナや瞑想などはもちろん、散歩、お風呂、空を見上げる、休むなど特別でない事でも ー をしてみましょう。

自然はとても素晴らしいお手本を私達に見せてくれています。蓮は昔から清らかさを表す植物として知られていますが、インドでは特に白い蓮の花はプンダリーカと呼ばれて、清らかさとサットヴァ(純質)の象徴とされています。蓮は泥水の中から育ちますが、その葉は水をはじき、水滴は玉になって葉を転がります。転がる水滴は汚れを絡め取りながら流れていくので蓮は泥水に汚されることなくいつもキレイな姿をしています。この素晴らしい自浄作用は自然で無理がなく、静かに行われています。自分で自分をキレイに保つ蓮のサウチャの実践は私達も是非、見習いたいところですね。

English follows Japanese.

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。今回は、スタジオのオーナーであり、数多くのシリーズクラス、オープンクラスを担当されているドミニカ先生が書いてくださいました。

「アパリグラハ」

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ヴェーダンタの観点から、アパリグラハを少し説明します。アパリグラハとは、不貪(むさぼらない)、非強欲(欲張らない)、無執着(執着しない)です。

自分はいったいどれだけのものを持っているでしょうか? 服、食べもの、本、電気製品、その他とにかく自分のものと言えるものなど? 不十分ですか、十分ですか、必要以上ですか? 多くの人は必要以上に持っています。持っているものの多くは、使いもせず必要も無いものです。ではなぜ持っているのでしょうか、なぜ捨ててしまわないのでしょうか? そして、なぜそれでもまだもっと欲しいと思うのでしょうか?

ものを所有すれば、だれもが望むような十分で幸せな人間になれる、と現代のメディアや消費者経済は伝えています。しかしなんらかの用途や利便性、または楽しみのためにものを持つことと、自分に欠けている何かを埋めるためや自分像をつくるためにものを持つことは違います。

私たちはたくさんの時間や労力を費やしながら、これさえあれば自分は十分になる、幸せになれる、安心できると思うものを手に入れてしがみつきます。しかしそれでもうそれ以上欲しがらない、十分な人間になったと思って感じる幸福感や満足感は、実は手に入れたものに投影されているだけなのです。したがって、自分はなにかが必要な不十分な人間だとまた思いはじめると、そのなにかをもっと手に入れようとさらに時間も労力も費やします。

ヨギの見地からすると、こういった時間や労力は、ヨガの実践や自己についての真の知識からはずれたものです。ヨガとは十分な人間に「なる」方法ではなく、もう既に自分が探し求める十分な存在であることを明らかにする道です。したがってアパリグラハは、「足る」、十分であるとはどういうことなのかをきちんと見極めることなのです。

必要なのか単に欲しいだけなのかを客観的に見極めましょう。未来への恐れや過去の記憶からの陰りに惑わされることなく、いまここにいる自分の真実を明瞭なマインドで見つめなくてはならないのです。アパリグラハの実践は、私たちの探し求める永久に十分な状態が、永久には存続しえない周囲の客体世界では得られないことを教えてくれます。永久に十分な状態とは、永久に存在する主体としての観察者、つまり意識として、既に自分の内がわにあるのです。 

This is a short explanation of aparigraha from the perspective of vedanta. Aparigraha means non hoarding, non greed, non attachment.

How much do I posses? Clothes, food, books, electronics,  and things that belong to me? Less than enough, enough, or more than enough?  For many of us, more than enough. Much of what we have we do not use or need.  So why do we have it, or why don’t we get rid of it? And why do we still want to acquire more?

Modern media and our consumer economy portrays the ownership of  things as the answer to becoming the adequate and happy person we all desire to be.To have something for function, usefulness and enjoyment is different from having something for identity and self fulfillment.

We spend a lot of time and effort to acquire and hold on to things we think make us adequate, happy and secure. 

The  happiness and contentment we have when seeing ourselves as non wanting and adequate, we project onto the things we acquired. So when we again see ourself as a wanting and inadequate person, we spend time and effort to acquire more things.

As a yogi this is time and effort diverted away from the practices of yoga and the true knowledge of self. Yoga is not a practice of becoming an adequate being, but rather one revealing that you already are the adequate being you seek to be. So aparigraha is looking at what is “enough” or adequate with discernment.   

Do discern objectively between needs and wants we must look at the truth of ourselves in the present with a clear mind, unblemished by fear of the future, or clouded by memories of the past. The practice of aparigraha helps us to reveal the permanent state of adequacy we seek is not possible to acquire in the impermanent object world around us. It already exists as the permanent subject observer within- consciousness. 

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ドミニカ先生ありがとうございます!次回は、ヒサコ先生による「saucha」です!お楽しみに。

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。今回は、シリーズクラスと月1回金曜日19:30-21:00にメディテーションを担当されている、マキノ先生によるご説明です。

「ブラフマチャリヤ」

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ブラフマチャリヤそれは 禁欲であると…。
ヨガ・バーシャによると生殖器の制御を徹底すれば大いなる活力を得るとあります。
 
ブラフマチャリヤのもう一つの意味は、ブラフマン(大宇宙)+アーチャーラ(道)

すなわちブラフマンの道です。私たちはブラフマンでしょうか、私たちは宇宙の一部でしょうか、それとも宇宙とは別なのでしょうか?そう、私たちは宇宙の一部であり、自然と共にあるのです。もう少し言えば、宇宙そのものであり、自然そのものなのです。

朝日に輝く蓮葉の水滴、まばゆくも澄んでいる青い空、木々のさわやかな緑、せせらぎの音、小鳥の囀り、そよ風の一撫で、暮れ行く夕日…自然は美しいです。それは水滴が何かをするからですか、夕日が美しいのは何かをするからですか? …自然は存在するだけで美しいです。人も自然なら存在するだけで美しいのです。本来ならば…。
 
しかし、多くの人々は満たされていないと思い、自分を取るに足りない存在だと思っています。どこか自分を嫌っています。自分を強制し抑圧し何かになろうとしています。もっと強くなろう、もっと静かになろう、もっと良くなろうと…。そこに葛藤や自己欺瞞を感じませんか、心が混乱していませんか? 無理矢理に我慢しているだけの禁欲、あるいは欲望が無いふりをしているだけかもしれません。それは快楽を求めてる心を何とかやり繰りしているだけです。例えば嫌なことが起きたときに、お酒やショッピングで誤魔化すようなものです。本質的には何も変わっていないことに気づきませんか、ガッカリしていませんか、疲れていませんか、それはエネルギーの消耗です。
 
ブラフマチャリヤそれはブラフマンであることを思い出しことです。その第一歩は自分を好きになること、粗末に扱わないことです。すると、心が活き活きして活力が満ちてきます。このとき、快楽ではなく、そこに愛があります。強制や抑圧ではなく、自由があります。混乱ではなく調和があります。人生そのものが祝福です。あなたの存在自体が稀有であり美しいのです。

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マキノ先生ありがとうございました!次回はドミニカ先生による「aparigraha」です。お楽しみに!

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。今回は、朝ヨガ、ベーシック0、ゆったりヨガ、リストラティブヨガのクラスを担当されている、ムツコ先生です。 5月から新たに月曜日のシリーズクラスと17:30からのオープンクラス、ベーシック0も教えていらっしゃいます。

「アステーヤ」

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「われわれはすべて盗人である。
知っていながら、あるいは知らないうちに、われわれは自然から盗んでいる。
一瞬一瞬、一息ごとに、われわれは自然からかすめ盗っている。
…誰の空気をわれわれは吸っているのか?
自然である。
だからといって息をするのをやめて死ねと言っているのではなく、
そのかわりに、一息一息を敬虔[けいけん]に受け取り、それを他者に奉仕するために使うのだ。
そうすれば我々は盗んでいるのではないことになる。
それを受け取っておきながら何も返さないならば、われわれは盗人である。」

— スワミ・サッチダーナンダ著 『インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ』

Asteya(アステーヤ) 人のものを盗まない。

それはものだけではなく、人の時間を盗まないこと(約束の時間に遅れるなど)皆のものを独り占めしないことなど・・ 更には盗む原因となる、人を羨む気持ちを持たないことも含まれます。

人を羨むのは、いつも自分にないものを人の中に見るからです。むやみに欲しがらず、今自分にあるものを見つめてみることが、大事。そうすると自分にあるもので、満足できることがたくさんあると思います。

厳密には、私たちは、常に自然界から”盗み”をしています。それは、自然界の空気をかすめとっているという事です。もちろん、息をするなという事ではなく、呼吸して生きているという事を敬虔に受け取り、受け取ったものは敬意を払いお返しするという事。

アステーヤの練習は、とにかく自分が既に持っているものに目を向けること、自分が既にいかに豊かであるかに気づくことから始まります。物質面だけではなく、心の中で感じる喜び、人を愛する心、人に愛されていること、美を愛でる感性、健康等々、全てが豊かさの一部です。この豊かさに気づくと、幸せになるための材料は、もう既に十分与えられていると実感できます。

ヨガのクラス中でも同じで、人が持っていて自分が持っていないもの:柔軟性、筋肉、八頭身のスタイル、安定性、等々を意識し始めたらきりがありませんが、自分に既に与えられているものに気づき、感謝することができたら、それだけそれぞれのポーズの意味も深まるのではないでしょうか?

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ムツコ先生ありがとうございました!次回はマキノ先生による「brahmacharya」です。お楽しみに!

English follows Japanese.

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。今回は、水曜日17:30-19:00(月2回)、金曜日(月1回)19:30-21:00 メディテーション、土曜日シリーズクラス、第2土曜日の瞑想会15:00-16:30 を担当されている、マドカ先生です。

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「サティア」

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 サティアは、ヨーガスートラの2つ目のヤマです。多くの場合、「嘘をつかない」、「正直でいること」と訳されます。自分の考えの内容、発する言葉の内容が事実であるかどうか、真実であるかどうかをよく視ることです。

嘘をつかないように努力することは、もちろん悪くありません。私も一時期そうしていました。しかし、今は違います。私も自分の考えと口に出す言葉をよく視ていますが、その内容がいかに事実でない、真実でないかを忘れないようにしています。言葉を変えると、私の考えと言葉は全て嘘です。私は身を持ってこれを理解することによって、自分のマインドの縛りから自由になりたいです。

説明をしてみます。「このリンゴは美味しい」と考えてみてください。2、3回考えてもいいです。そう考えることによって、リンゴの味がしますか?口の中にリンゴの食感がありますか?それでお腹がいっぱいになりますか?

「私は賢くなった」と考えてみてください。何回でもいいです。もしかして、賢くなった気分になるかもしれません。しかし、自分の頭の良さは本当に変わりましたか?

今度は、私が「お腹が空いた」と言います。それを信じてくださると、そうですかと思うかもしれません。そして、自分の空腹の体験があるので、私の気持が分かると思います。しかし、『私の』空腹は感じられますか?

このように、考えとそれを構成する言葉には限界があります。言葉と考えは悪くありませんし、コミュニケーションと日常生活のためには欠かせません。しかし、言葉は現実の『説明』にすぎません。「リンゴ」、「かしこさ」、「空腹」という言葉は、リンゴなどそのものではありません。本物のリンゴを指し示している指です。本当のリンゴとはどんなものかが知りたいなら、その指が指しているリンゴに目を向けないといけません。私たちが考えを現実と間違っているときは、指をみて「リンゴだ!」と思っている状態と同じです。

その指を見たいのか、真実を知りたいのか。言葉を現実・真実と勘違いすると、何が問題でしょうか?

実験的に、「私の髪の毛が突然恐ろしい色に変わった!」と考えてみてください。そう考えると、何か問題おきましたか?多分ですが、そう考えても、その考えを信じていないため、問題を感じません。しかし、髪の毛の色が本当に突然変わったと信じたとしたら、気持はどうでしょうか?自分の気に入らない色でしたら、慌てて問題だと感じるでしょう。

これで何が分かるかと言うと、考えの内容はあまり関係ない、ということです。考えが変わっても、事実は変わりません。そして、同じ考えでも、実態と関係なく、その考えを信じているかどうかによって気持が変わります。私の知っている限り、どなたでもたくさんの矛盾する考えが常に頭を遮っています。私も、自分が頭がいいと思う時もあれば、次の瞬間に自分はバカだと思います。隣人がなんと素敵な人だと思うと、ちょっと気に入らないことをされると嫌な人だと思います。その考えによって私の気持も変わります。しかし、私の頭の良さが変わった訳でもありませんし、隣人が素敵な人から嫌な人に変身した訳でもありません。私の考えが事実そのものでしたら、自分がバカだと思う瞬間、バカになったり、なんと天才だと考えたら天才にならないといけません。考えが事実そのものでしたら、大変な世界になります!

多くの人は、自分にダメだしを言い、ダメだしほどダメージを与える嘘はないかも知れません。この文書を読むだけで納得はしないかもしれませんが、ダメな人はいません。

自分がダメだと思っている時、自分を実は視ていません。社会の観念、価値観、他人との比較などにとらわれているでしょう。現実に目を向けると、自分の身体があります。その身体は呼吸して、心臓の鼓動があって、血流もちゃんと流れています。自分がダメだと思うと、心が騒ぐかもしれません。どこかで「ダメじゃない!」と反発します。言い訳、相手や自分を責めたりすることは反発でしょう。どこか深いところにある自分の素晴らしさに気付いて欲しい、という可能性もあるのでは?

私は真実が知りたいです。悟りとは何かが知りたい、私は一体何なんだを知りたいです。したがって、私のサティアの実践は、言葉・考え・概念にだまされないように、言葉を信じるのではなく、真実そのもの、事実そのものに目を向けることです。悟り深い先生の言葉でも、信じるものではありません。素晴らしい聖典の言葉でも、信じるものではありません。最近流行っている良さそうな本も、このブログで書いてある言葉も、信じるものではありません。それらは、何かを指し示している指です。指を見て、言葉や自分の考えにだまされないこと、真実を見た気にならないこと、その示された先を見て真実そのものに気付くことが、私の課題であって、サティアの実践だと思っています。そうすると、答えが想像絶するぐらいすぐ近くにあると発見します。自分の存在そのものが答えです。この言葉を信じないで、よかったら自分を視て、全身全霊で知ってください。
(more…)

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。まず、先陣を切って、説明してくださるのが、月曜日と金曜日11:00から、「ゆったりヨガ」を担当されている、サチコ先生です。
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「アヒムサ」

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ヤマ(=禁戒と訳されますが、「しない方がいいよ。止めてみてごらん。」と言われていると思ったほうがすんなり入ってきますね。)のトップにきているのが「アヒムサ」です。「非暴力」という意味です。聞いてすぐ頭にイメージできるのは、人に対して暴力を振るわない、あるいは暴言を吐かない、ということですよね。

でもここでは自分に対しての暴力はどうかしら?と考えてみたいと思うのです。自分に対して無理を強いていませんか?という事です。自分の事は「私の事なのだからよくわかっている!これ位はこなして見せる!」と思いがち。特にまじめ気質、根性ものを賛美しやすい日本人は要注意ではないでしょうか。

私がはっきりそれに気がついたのは、数年前、自分のクラスを一か月間もできなくなった時です。突発性難聴という急性の症状でめまいと吐き気に急に襲われ救急車で入院したことがあります。(長くクラスに参加して下さっている方は、ああ、あのときね、、と懐かしく思い出して下さるでしょう.笑)ちょうどお年頃「更年期」の入り口にいたのですが、そしていくつか体から発せられている「サイン」があったのですが、立ち止まってみることを後回しにしていたのですね。「いつもどおり」の予定をこなそうと、無理をしていたようです。点滴に繋がれて、初めて気がつきました。そして自分の体が第2?の曲がり角に来ている事を受け入れ、これからこの変化にどう適応したらいいか、を考える貴重な時間を貰いました。

自分に強いる事柄が多いと周りの人にもその強制感は伝わりますよね。自分の周りの事柄がうまく回っていないな、と感じる時は立ち止まって、「おっと、、いけない、いけない、、、アヒムサ」とちょっと力を抜く、対処を変える、すると滞っていた流れは復活しやすくなるな、と感じています。そしてそれが人に対する暴力をも自然と消滅させる方法に繋がっていくと思うのです。

もちろん「物事そんなに簡単ではな〜い!」という意見もあるでしょう。でも自分がヒムサ(暴力)に陥りやすいよ、と自覚しそれを意識しているのと、全く意識していないのとでは先の道が大きく違う方向に向かうように思います。

そういう私もその後もちょくちょくと小さな失敗をしているのですが「小さくてよかったね、今度は気をつけよ〜ね」と自分に語りかける毎日です。

サチコ

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サチコ先生ありがとうございます!次回は、マドカ先生による「satya」です!お楽しみに。  

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